量子センサによって反強磁性体Mn3Snにおけるキラル磁壁の構造を初めて実空間観測した成果を、Physical Review B誌にLetter論文として発表しました。本論文はEditors’ Suggestionに選定*されました。
*掲載が決定した論文のうち、約10%が編集部によってEditors’ Suggestionとして選出されます。

ダイヤモンド量子センサによる八極子磁壁の高精度測定
磁気八極子(六角形)の秩序方向(青と赤の向き)が空間的に変化している構造(磁壁)の測定イメージ。磁気八極子は6つの磁気双極子(六芒星の各頂点の灰色矢印)から構成されています。ナノスケールの量子センサを物質表面で走査して計測することで、八極子の空間的な構造を明らかにしました。
磁気記録技術は今日の情報化社会の基盤を形成しています。現在の製品には主に強磁性体が使用されており、一般的な磁石のように周囲に強い磁場を発生させます。磁場の検出により情報を容易に読み取れる一方で、高集積化や動作速度の面で課題がありました。磁気八極子秩序を有する反強磁性体Mn3Snは、情報の読み出し性能と磁場漏洩の少なさを両立する解決策として注目されています。しかし、八極子方向の詳細な空間分布(磁区構造)やその方向が反転する境界(磁壁)といった基礎的構造には未解明の点が残されていました。これは、周囲に生じる磁場が通常より2桁以上小さく、実験的観測が著しく困難であることが原因です。これまで数多くの研究で観測が試みられてきましたが、定量性と空間分解能の両立が難しく、決定的な成果には至っていませんでした。本研究ではこれらを解決し、磁気秩序の向きを明らかにするとともに、磁壁の内部構造の解明に成功しました。
私たちはまず、できる限り大きな磁区サイズを実現するために、高品質なMn3Sn単結晶薄膜の作製に取り組みました。次に、原子1個程度のサイズを持つダイヤモンド量子センサを薄膜上で走査し、得られた磁場分布についての詳細な解析を行い、磁区形状に対応する磁化の分布を明らかにしました(図1)。八極子秩序を有する薄膜において、これほど明瞭な磁区画像が得られたのは初めてであり、局所的な磁化の値や秩序方向を詳細に決定することが可能となりました。
図1:Mn3Snの磁区構造に対応する磁化分布画像
Mn3Sn薄膜における磁化の空間分布を示しています。赤色と青色の部分はそれぞれ、紙面面直上向きと下向き方向に八極子が向いた磁区に対応します。八極子の方向が統一されている領域は数百ナノメートル四方程度の大きさであり、それらの境界の白い線の部分が磁壁に相当します。得られた磁化の典型的な値は、マンガン原子1つあたりで平均すると、ボーア磁子(µB:磁気の物理定数)の0.016倍であり、通常のマンガンの磁性体と比べて100分の1の大きさです。
さらに私たちは、磁壁の位置を精密に制御しながら測定を行うことで、2つの磁壁に起因する磁場信号のみを抽出することに成功しました(図2)。複数の理論モデルを比較検討することにより、磁壁の詳細な構造が検証され、磁壁は八極子秩序を保ち、その八極子の回転方向(キラリティ)が同じ方向(左ネール磁壁)で揃っていることが明らかとなりました。さらに、磁壁の幅が40ナノメートルであると正確に決定できました。
図2 :Mn3Snの2つの磁壁からの漏れ磁場分布の解析
2つの磁壁(磁壁1と磁壁2)からの漏れ磁場分布を、さまざまな磁壁構造に対する理論モデルと比較検討した結果、左ネールタイプであることが分かりました。この磁場分布は、図1点線部の磁壁2つを意図的に消失させる前後の磁場分布の差分を取って得られたものです(横軸の単位はマイクロメートルです)。
本成果は、八極子秩序に基づく反強磁性スピントロニクスにおける重要な知見やパラメータを提供し、磁壁制御による記録デバイスの発展や多極子磁性の基礎理解に大きく貢献するものです。科学技術振興機構(JST) 未来社会創造事業において推進されているスピントロニクスと光電技術の融合デバイス開発に対し、本研究はその中核を担うワイル反強磁性体Mn3Snの磁壁の幅や局所的な磁化の値を高精度に明らかにした初めての成果であり、本物質を用いた研究全体を大きく推進することが期待されます。
また、微小な磁場しか発生しない反強磁性体に対して、ダイヤモンド量子センシングを活用してその性質を精密に探究できる手法を確立したことは、今後の反強磁性体研究において、基礎物理・材料開発の両面から広く展開が期待されます。これは、JST 戦略的創造研究推進事業において推進されている量子スピン顕微鏡で切り拓く極限物性の探索において、量子スピン顕微鏡が反強磁性体研究において有用な量子技術となることを実証するものです。
※本成果は物理学専攻 中辻研究室、物性研究所 大谷研究室・三輪研究室、スイス連邦工科大学チューリッヒ校のDegen研究室、Gambardella研究室との共同研究です。